おさなごころの君に、

茜色の狂気に、ものがたりを綴じて

「琴子ちゃんの風景-05」楢﨑古都

 

 そういえば少し前に、ママが人差し指をくちびるの前にいかにも秘密めいた仕草で立てて、わたしに耳打ちをしてきた。
 「パパにはまだ内緒なんだけどね、」
 前置きしてから、ママはパパと出会った少し後に知りあった、もう一人の男の人についての話をした。
「実は、ママにはほんの少しのあいだ、パパとその人と、両方ともを好きになってしまっていた時期があったの。」
 なんのクッションも置かず、ママは突拍子もないことを言った。
 わたしのママってば、ちょっとママらしくないところがあって、わたしなんかより断然子どもっぽいんだからって、つくづく思う。
 そんなママだから、パパ以外の人を、
「パパと同じくらい好きだったの。」
 なんて、娘のわたしに真顔で言えちゃったりするんだ。
 わたしが、そんなようなことをつたないことばでママに伝えると、
「そうね、でも琴子ちゃんにもきっと、いつかこの気持ちがわかるようになるわ。恋をするようになったらね。」
 なんて、言った。
「琴子にはパパが一番だもん。」
 言い返してやったら、ママはなにも言わずに笑った。
 ほんとうのところ、ママはパパとの結婚をかなり迷っていたらしい。鎌倉のおじいちゃまやおばあちゃまが、自分のことをあまりよく思ってくれていないことは薄々感じとっていたし、そのことでずいぶん気負いも感じていたんだ。
 だから、ママはちょっと周りを見回してみることにした。それで、もう一人の男の人と出会った。左腕のある、パパとは別の人と。
「ママね、その人と結婚した方が楽なんじゃないかな、ずっとしあわせになれるんじゃいかなって思ったの。パパのおうちみたいに、昔からある大きなお家に住んでいる人でもなかったし、右手でママと手をつないだら、左手で自分の荷物とママの荷物を持って、一緒に歩いてくれたのよ。」
 ママは馬鹿だ、わたしは心底そう思った。わざわざ、口に出して言ったりはしなかったけれど。
 ママの荷物を持ってあげるために、誰彼に左腕がついているわけじゃないんだから。
「人をいっぱい好きになるとね、たまにいろいろなことが見えにくくなっちゃうときがあるのよ。ママはやっぱり、パパのことがいちばん好きだったんだと思う。だから余計に、臆病になってしまっていたのね。」
「おくびょう?」
「そう、パパのご両親のことや、そのおうち、それからゆくゆく会うことになるだろう、親戚の人たちのことなんかについて、ね。」
 苦笑いするママの気持ちは、なんとなくわかった。わたしだって、あの人たちのことは苦手だもの。
「だからね、ママはそのもう一人の人と結婚しようって、一度は心に決めたの。その人のおうちへも行って、暖かく迎えいれてももらったのよ。」
 いったいどうして、ママはいきなりこんな話をするんだろうって、このとき思った。
「これでパパと会うのは最後にしよう。そう決めて、パパに会いに行ったわ。もうずっと会ってなかった。本当は、すごく会いたかったのにね。」
 ママは、とても悲しそうな目をしていた。
「……毎年、琴子ちゃんも行っているパパの大学、わかるでしょう?」
「うん。」
「ママね、あの日、なぜかとても焦っていた。ちょうど、あの大学の交差点のところまで来たときだったわ。歩道の向こう側にパパを見つけて、信号が変わりかけているのも無視して、道路へ飛び出してしまった。」
 ごくん、と唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
 だからママは、わたしなんかよりずっと、断っ然子どもっぽいって、いつも言っているんだ。
「交差点に車が入ってきたのと、ママが誰かの左腕に抱えられて突き飛ばされたのとは、ほぼ同時だったわ。」
「ママ。」
 ママはいまにも泣き出しそうだった。目はすでに真っ赤になっていて、なんとも頼りない涙の幕が、瞳の色をあやうくぼかしていた。
「あの人が、助けてくれたの。ママと、それからお腹の中にいた、琴子ちゃんの命を。」
「ママっ、」
「血なんて、全然流れなかったのよ。それなのに、打ち所が悪くて……」
 いつのまにか、次から次へと涙はあふれ、こぼれ落ちていた。実際、泣いていたことにさえ気づかなかった。人は、ほんとうに悲しいと、こんなふうに涙を流すんだ、とはじめて知った。 

 

お題「もう一度行きたい場所」

 

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