おさなごころの君に、

茜色の狂気に、ものがたりを綴じて

【草稿】「夜を縫いとめる」

そうだな、君は僕にやさしすぎた。

〇三七 きっと君は、この両の手のひらじゃ足りないくらい たくさんの隠しごとを僕にしていたんだろう。 もうそれを君と話すこともできない。 君は君自身を、君ひとりで抱えていくって 勝手に決めてしまったから。 怒ってないよ、怒ってるけどさ責めてるわけ…

甘露をいただいているように僕には見えた

〇三六 「いったい誰の涙を舐めたのさ」 思い返せばあれが、僕らのいちばんの大喧嘩だった。 「ねえ、どうして苦いなんて知ってるんだよ。 僕は泣いている子の頬を伝うあれを愛しそうに 舌先ですくってあげている上級生を見たことがあるよ。 あれは全然苦く…

あんなの傷の舐め合いだ、涙なんてひどく苦い味がするんだから。

〇三五 ねえ、どうして僕らは泣くことができなかったんだろう。 行為としてのそれは知っているのに、 僕も君も涙というやつを流せなかった。 あれを、普通種の劣性として馬鹿にする奴らもいた。 でも僕ら人類種にとって、泣くことは 当たり前の行為だったん…

僕たちに、別の共生方法はなかったのか

〇三四 僕は決して、懐かしんだり偲んだりしているわけじゃない。 だって、君は死んだわけじゃいない。 けれども君はもう、僕に触れてはくれない。 僕の方からしか、寄りかかり、語りかけることはできない。 ねえ、どうして君は、 最後まで君自身のことを僕…

君とはじめて出会ったとき、僕はひどく卑屈な奴だった

〇三三 君とはじめて出会ったとき、僕はひどく卑屈な奴だった。 その性格はいまも、切り落とされた枝後の節のように ねじ曲がりひねくれた箇所をあちこちに残しているけれど、 僕は意外と、こんな自分をいまでは気に入ってもいるんだ。 僕が素っ気ない態度で…

過剰すぎる光合成能力を僕へと移譲させていった

〇三二 僕は、あの生物学教授をなじり責めたてた。 然るべき行為だったと疑わない。 あいつは自身の研究のため、とどまるところを知らない 高揚感に身を任せ、完全なる興味本位で 君と僕との身体を実験体として扱った。 君はわかっていて、あいつの好きなよ…

まるで意識したことがなかった。君の不在によって引き起こされる、僕自身の不調なんて

〇三一 まるで意識したことがなかった。 君の不在によって引き起こされる、僕自身の不調なんて。 厳密には、いまの僕に、君のような栄養享受媒体は 必要ない。君が、君自身が抱えていた希少性を生かし、 僕を劣等稀少種から普通種に上位互換させてしまった …

ヒヤシンスの花言葉はかなしみ、アネモネの花言葉は見限り

〇三〇 ヒヤシンスの花言葉はかなしみ、アネモネの花言葉は見限り。 ねえ、僕らはほんとうにそのとおりだったと思わないか。 ギムナジウムの寮で過ごした日々、 君が僕を攫い温室にかこった短いとき、 そしていま、君はかなしみだけ残し、僕は見限られた。 …

君と生物教授とが犯した密かではてしなく非合法な研究成果

〇二九 君の体温がなくても生きてゆける明日なんて、 僕はこれっぽっちも望んでいなかった。 僕みたいな劣等稀少種のために、君と生物学教授とが 犯した密かではてしなく非合法な研究成果は、後々の 人類に大いなる功績として崇め奉られるかもしれない。 で…

一生俺なしでは生きてなどいかれなくしてやりたい

〇二八 「本当はお前を離したくない、死ぬまでそばに置いて、 一生俺なしでは生きてなどいかれなくしてやりたい」 あの夜、確かに君はそう言ったのだ。 君と生物学教授は、僕のあずかり知らぬところで 僕のような超劣等希少種が生きてゆくための術を研究し、…

舎監もまた知っていたはずなのに

〇二七 君の不在について、 寮の舎監は事務的にファイルされた書類をめくり 「帰省とあるね」やはり事務的に答えると、 それ以上は何も教えてくれなかった。 舎監もまた、知っていたはずなのに。 この僕の身体が光合成はおろか、 生命を維持するため必要不可…

君の匂いは地に落ちた花殻みたいにわずかも残っていなくって

〇二六 夜、僕はいつも通り自分のベッドにひとり横たわった。 こんなことをするのは、とてつもなく恥ずかしいばかりか、 もういっそ自分自身をひどく貶めてやりたい気持ちで 一杯になるのに、昨晩の君の残り香を僕は、 毛布に、シーツに、枕元に探さずにいら…

枯れ枝みたいに痩せっぽちの僕の身体

〇二五 目覚めると君はもういなかった。 明け方、君は僕の冷えた身体に触れて 「ほんと莫迦」あくび混じりになじった。 なされるがまま毛布へ導かれ、寝間着を脱がされる。 それから当然のように君自身も寝間着を脱ぎ捨て、 枯れ枝みたいに痩せっぽちの僕の…

吐息まじりの声は夜の底からとどくお別れ

〇二四 昨晩、君は僕のベッドで眠った。 僕は拗ねて明け方までライティングビューローの天板に突っ伏し、 いつも君が使っているひざ掛けを肩から被って、 そのうちに寝落ちていた。 冷え込みが最もひどくなる夜明け近く、 不意に君が起き出すのを感じて、 そ…

僕は、君を見つけた。

〇二三 「ヒヤシンスの花言葉を知ってるかい」 「知るわけないよ」 「そっか」 ふふんと鼻を鳴らし、やっぱり君は僕のことなどそっちのけで、 瓶の中を乱反射する水と光の移ろいを見つめている。 意味を教えてくれるつもりはないらしい。 しかし、この至極簡…

そうしてあっというまに、すべてが冷たい水にすとんと浸かった。

〇二二 君が教授からもらってきたのは、ヒヤシンスの球根らしい。 詳しくないので、僕には言われたままを信じるしかわからない。 あまり乗り気でない僕を、君はわざとほったらかしにして、 酒瓶に汲んでこさせた水をこぽこぽと空瓶にそそいでいった。 球根は…

真夏の夜など君はもう図書室で寝落ちてしまって

〇二一 真夏の夜など君はもう図書室で寝落ちてしまって、 僕は僕で君がいなけりゃ万が一発作でも起こしたら 敵わないから、すぐそばに寄り添い眠った。 図書室なんて、もはやその必要性すら見失われかけていた けれど、人類種の軌跡、連なってきた過去の貴重…

過去の遺物保管所と化している図書室にとじこもった

〇二〇 君は夏の暑い日がとても苦手だった。 まるで北極熊が冬ごもりのため穴を掘り、 そこで出産・子育てするように、 湿度・温度が完全管理された、いまとなってはもはや 過去の遺物保管所と化している図書室にとじこもった。 僕らの生態はすでに遺伝子レ…

愛しているということばの持つ哀しみにも気づかずにいられた

〇一九 夢の中の僕は君のことがずっと好きで、これまでもこれからも ずっと君と生きていくことができるのだった。 目覚めるとき、今朝こそは痺れる冷たさだけを残したシーツに 触れるのではないかという不安を抱えながら、 毎晩僕らは眠りにつく。 隣で眠る…

やわらかな、とてもやわらかな夢を見た

〇一八 やわらかな、とてもやわらかな夢を見た。 そこはとてもあたたかく、 僕は生きる糧としての宿り木を必要としなかった。 むしろ、そんなことはすっかり忘れて、 僕は世界と同化していた。すべてのものがやさしく、 僕はただ僕であればよく、君は君であ…

縁の欠けたビーカー

〇一七 「教授にもらったんだ」 縁の欠けたビーカー、ジャムだかピクルスの空瓶、 上級生から譲りうけたのに違いない粗悪な酒瓶、 それに十余りの球根を乗せたパレット。 特に苦もなく床へ下ろす様に、 思いのほか筋力があるのだなと訳もなく感心した。 「水…

僕にとっての宿り木

〇一六 僕にとっての宿り木ともいえる君の体質は極めて植物的で、 時間さえあれば足繁く学院の生物学教授のもとへと通っていた。 それは自身の特殊な体質を研究の一助として役立ててもらう ためだと公言していたが、 あらぬ噂で囃したて嘲笑する低俗な輩も少…

捕食されるのを待ち構えるしかない小動物の気持ち

〇一五 「卒業したらどうすんの」 「君は」 「聞いてんのこっち、教えてよ」 「施設」 「なにそれ、専門職? 資格でもとるの」 「違う」 「機嫌悪い」 「僕にばっか聞くなよ」 「進学しないの」 「人それぞれだろ」 「んーまあ、そうなんだけどさ」 僕の謂わ…

だからいま、そんな絶望したみたいな顔してるんだ

〇一四 知らなかったの、知らなかったんだね、 だからいま、そんな絶望したみたいな顔してるんだ、 莫迦だなあ、大丈夫だよ、心配しなくていい、 もうひとりで生きていける、依存してたって? 違うよ、そばにいてくれたんだ、 そんな泣きそうな顔しないで、…

やさしい嘘だよ

〇一三 ギムナジウムで出会い、六年間の寮生活を、 僕は君に依存して過ごした。 生きた、と言いきるべきなのかもしれない。 君には選択という拒否権が与えられていたけれど、 それは社会的体裁に過ぎなかった。 僕らの社会は劣等希少種に寛容だった。 「やさ…

他者に頼るしか栄養享受の術を持たない

〇一二 特筆すべきは、光合成などもってのほかの紫外線アレルギー。 加えて、他者に頼るしか栄養享受の術を持たないこの体質。 光合成ができない劣等種はマイノリティとして存在した。 ただし、食事や点滴で栄養素を直接摂取したり、 呼吸をコントロールする…

極めて特殊な劣等希少種

〇一一 全寮制であったギムナジウムには入寮検査があり、 各人前もっての自己申告が義務付けられてはいたが、 診断結果から学院独自のアルゴリズムに基づいて ルームメイトとなる最適ペアが選定された。 僕はいわゆる特別変異種の類で、さらにはその性質上、…

腹の底から胸くそ悪い奴だと思った

〇一〇 「僕は呪われているんだ」 「へえ」 「僕は呪われているんだよ」 「聞いた」 「君、頭がいいんだろ察しろよ」 「その呪いは周囲を巻き込む類のもの」 「ああそうだよ、もういいだろ」 「具体的にどんな不都合が生じるのか知りたい」 霜降る季節の終わ…

僕の独占欲をあまく見るなよ

〇〇九 君が僕をこの小さな温室にガラス張りの楽園に 閉じ込めた。 ねえ君、僕の独占欲をあまく見るなよ。 期待なんてものを抱かせて、僕を君だけのものにして。 それがどれだけのことか本当にわかっているのか。 なあ、僕は怖くて仕方がない。 なぜ僕なんか…

出来損ないの手間ばかりかかる役立たず

〇〇八 君がね僕を愛してくれるその理由が知りたいんだ。 だって君は一人で生きていけた。 選択肢はいくらでもあった。 それなのに、どうして僕みたいな劣等種を選んだ。 出来損ないの手間ばかりかかる役立たず。 そういう性癖か、それならそれでもいい。 で…